映画『最も危険な年』上映会+対談会(2023.7.22@大阪弁護士会館)
大阪弁護士会主催/映画『最も危険な年』上映会・対談会に参加。
同性婚がアメリカ最高裁で認められたことにより、保守派の標的がトランスジェンダーのトイレ問題に変わった2016年。
これは、トランスジェンダーの子どもを持つ家族の姿を追ったドキュメンタリー作品。
まず、アメリカではこんなに小さい子どもが「トランスジェンダー」として周囲にも認知され生きているのかと驚いたが、私が知らないだけで日本にも自助グループがあるそうだ。
どの子にも共通しているのは、成長に伴い自らの出生児の性別に違和感を持ち、「生まれてこなければよかった」と抑うつ的な状態に置かれ、性自認を周囲に認められ、自らの思うように生きられるようになってはじめて本当の自分の人生を生きることをはじめられたと感じていることだ。
トランスジェンダーは精神疾患の発病率が高いと言われるが、実際には、性自認を尊重され、サポートを受けているトランスジェンダーの精神疾患発病率は一般的な発病率と大差はないのだそう。
子どもたちを守ろうと奮闘する親たちの「我が子の市民としての権利を守るたたかいだ」という言葉が印象的だ。
トランスジェンダーへの差別は生死に関わる問題であり、「社会を直す」必要がある。
対して差別する側は、人の心に恐怖を植え付ける「脅迫法」を用い、トランスジェンダーは本来「存在しないお化け」「幻想」などと主張する。
日本でも昨今、トランスジェンダー、とりわけトランス女性の「トイレ・銭湯問題」を盾にした差別が繰り広げられており、全く同じことが何年も前にアメリカで起こっていたのだ。
カメラを向けられた彼らは、トランスジェンダー女性が女性トイレを使用したことで起こる犯罪の具体例については答えられない。
女性トイレに侵入するため「女装した男性」はトランスジェンダーではなくれっきとした犯罪者であり、それは従来の法律で罰することができる。
日本でも今年、「LGBT理解増進法」の成立過程で全く同様の言われなき差別が急速に広まり、「全ての国民が安心して生活できるよう留意する」という文言が維新・国民によって書き加えられた。
そもそも問題は、マイノリティの安全をどう保障するかということであり、全ての国民の安全は、従来の法律で対応できることだ。
日本のトランス差別は、アメリカでのこのたたかいから大いに学んだということなのだろう。同じことを繰り返している。
デモに参加したトランスジェンダー男性の子どもの発言、「自分の性器を他人に見せたくはない」という発言が印象的で、これに尽きると感じた。
ワシントン州において、右派勢力はトランスジェンダーの性自認に基づくトイレ利用を制限する法案の成立に向け署名を起こす。
一方トランスジェンダーの子を持つ親たちは子どもの権利を守るため、議会の公聴会等、公の場に出向き、たたかう。
トランスジェンダーのトイレ利用によって犯罪が増えると主張する右派勢力に対し、警察からも、「トランスジェンダーの人がトイレで犯罪したことはない」ときっぱり反論される。右派勢力の「犯罪が増える」という主張の根拠は何もないのだ。
また、メディアや映画で描かれるトランスジェンダーの姿が偏見を助長しているということも指摘される。
人々は何度も、アメリカが経験した過ちー黒人差別の歴史に触れる。
「分離すれど平等」の欺瞞。今はそれが、トランスジェンダーに向けられていると語られる。
何も罪を犯していないという人間を、「黒人だから」「トランスジェンダーだから」「不快だから」というだけで分離し、隔離・孤立させる権利は誰にもない。
それは、「市民としての権利」を制限させることだ。
障害者、黒人、女性……。家父長制を基盤に、権力者層(その多くはシス男性だ)がマイノリティを抑圧してきたのが人類の歴史。
いま、トランスジェンダーがその標的となっている。
映画の最後には、トランスジェンダーのトイレ利用を制限する法案が退けられる。
トランスジェンダーの子を持つ親は言う。
「私たちはすでに勝っていた。「自分を愛する」ことの大切さを我が子に教えるという、親として大事な仕事を終えていた」と。
休憩を挟み、仲岡しゅん弁護士、金友子さん、西田彩さんによる映画を踏まえての対談。
まずは、映画の感想から。
(金さん)アメリカの「平等」の概念。マイノリティのたたかいの上に、今のトランスジェンダーのたたかいがある。アメリカでは(黒人に対しての)「分離・隔離」政策への批判意識の共有が前提としてある一方、日本では関東大震災の虐殺さえ検証も謝罪もされていない。
(仲岡さん)「保守的なトランス当事者」を称している。当事者は理想論で生きているわけではない。男女二元論の社会の隙間を生きなければならないということを自覚している。そういう意味で、映画は、冷めた目で見ている部分もあった。本質は「トイレ・風呂」にはない。どちらにしろ、ほっといてくれという気持ち。
(西田さん)映画はアメリカが舞台だから、アメリカの歴史の上に立つものになっている。親が子を守ろうとする姿には、日本との共通点を感じた。当事者は孤立しやすい。今はインターネットを通じて当事者同士がつながりやすくはなったが、親の孤立は課題として残る。また、ネット上にも差別が溢れている。
(これを聞いて、不登校の子どもを持つ親たちの自助グループを思い出した)
(西田さん)映画には低年齢の子どもたちが多く出ている。発達過程でどうジェンダー・アイデンティティを形成していくのか(今はこれを「エクスペリエンス・ジェンダー」と言うとのこと)。
「帰属意識」、男/女/ノンバイナリー、自分がどこに所属するのかを言語化する能力も必要。つまり、圧倒的多数の言葉で埋め尽くされた世界で、マイノリティは、自分を表現する言葉をつくることを求められる。
当事者は、一貫・安定した自分を築けないこと、自認と周囲からの扱いの違いに苦しんでいる。
(仲岡さん)映画で引っかかった点は、いくつかある。
ジェンダー・アイデンティティが脳科学・医学によって根拠づけられているという主張への違和感。
「心の性」という表現は間違っている。自分の体をどうしたら動かしやすくなるか、生活しやすくなるか、『攻殻機動隊』の義体のようなものだと説明している。
映画の女の子(トランス女性)は、女の子が好きだと言われるジェンダー・バイアスに基づいた趣向を示しており、引っかかった。
もしかしたらこの先の長い人生で、違う認識になる可能性もある。
トランスとそうでない人を見分ける必要はない。
必要なことは、その人が何に困っているのか、その困りごとに対して対応することが
大事。特に、映画に出てくる子どもたちは幼いので、本人にもまだはっきりわかっていない可能性がある。
(西田さん)男・女が好むもの、そういう土台の上でしかトランスジェンダーを理解できないという世間の問題がある。「心の性」という言葉は、「性同一性障害」という言葉がつくられたときに生まれた。心の性と身体の性が違うということでわかりやすいとされたが、それによって当事者の苦しみが生まれている。
(仲岡さん)単純に、「生まれたときと違う性で生きている人」
長い時間をかけ、性別の根本を切り替えてきている。トランジションする際には当然、人間としての生き方にも変化がある。
(西田さん)自認する性別のトイレを使っている当事者は、3割ほどだという調査結果がある。
特に大きな変化があるのは第二次性徴の前後。自分を肯定的にとらえられるかが重要で、トランスであるかどうかは関係がない。
その人が表現する性を尊重すること。
そもそも当事者はトイレどころか、学校に行けなくなる、家からも出られなくなるということも多い現状。
「怖い」という恐怖の感覚を利用して差別が行われる。
ありもしない「マジョリティの妄想」。
トイレ問題について、大別すると2つにわかれる。
①性犯罪者が性別を装う道をひらく
②トランス女性は身体が男性だという偏見
①は防犯の問題であり、現状でも性別関係なく処罰されるもの
②は不快感や不安を蓑にして、「誰が女性か」を判断する権利は自分にあるとする傲慢な考え方。基準は常に差別側が握っており、排除するための基準をつくっている。
それらが一部フェミニストと結託していることの問題もある。
身体ではなく、「女性としての経験」を基準にするという主張もある。
自分たちと同じだとは思っていない。
「日本国籍をとった韓国人は何人か」という差別発言にも通じる。
(仲岡さん)身体を女性としてもって生まれた人は弱者とされ、トランス女性はその点で強者だとされるが、自分にとって男性身体をもつことは呪いだった。
トランス排除で、女性の安全は本当に保たれるのか? 女子トイレに侵入しようという悪意のある人間はそれで諦めないだろう。
司法試験のとき、トイレは使わなかった。自分も他の受験生も、人生をかけて受験をしにきている。そんな場で、波風を立てたいとは思わない。
また、障害のある受験生のことを考えると、障害者用トイレを使うこともためらわれたため、試験会場とは異なるビルのトイレを使用した。
当事者はこのようにして日常を生きている。この苦労を無視している。
後年、同じ試験会場にトランス当事者がいたことを知った。
(西田さん)「トランス女性はいかに排除されるべきか」ということばかりが語られている。「当事者はいかに安全に生きるか」苦心している現実がある。
小学校〜高校まで、秘匿し、出生児と異なる性で過ごす子どももいるが、女子大学に入学しようとするとそこで排除される。またそれがアウティングにつながってしまっている。
「スポーツ」というと主語がでかい。
現実の困難をどうなくすかではなく、排除することばかりが主張される状況。排除されるということは、「選択肢を奪われる」ということ。
(金さん)今は当事者がネットで差別に触れてしまう状況がある。
「世界は私を歓迎していない」と思わせる状況がある。
(仲岡さん)特権がないのにあるように言われる。「在日特権」と同じ。
(西田さん)差別する側が根拠にしている『トランスジェンダリズム宣言』という本があるが、これには、トランス女性が女性とバッティングする部分ー例えばトイレでは、女性に譲ろうということが書いてある。
▼天満付近に行くならと、梅田から炎天下を歩き、大好きなwanna mannaへ
▼他のもおいしいけど、最高においしすぎてこればかり注文してしまう。「焼餅(シャオピン)」
▼wanna manna付近をふらついていて見つけた、かっこいいライブハウス(?)
▼もしかして近いのではと思ったら、やっぱり近くにあった(思った以上に近かった)長谷川義史さんのギャラリー。
残念ながら閉まっていた。こじんまりとしていて、中に大きな机があって、川が見える絶好のロケーション。
▼大阪弁護士会館は写真で見た以上にいかつく立派な建物だった。内観が素敵だった。
キティ・グリーン『アシスタント』(2023.7.5@元町映画館)
《解説》
2017年にハリウッドを発端に巻き起こった「#MeToo運動」を題材に、憧れの映画業界が抱える闇に気づいた新人アシスタントの姿を通し、多くの職場が抱える問題をあぶり出した社会派ドラマ。
「ジョンベネ殺害事件の謎」などのドキュメンタリー作家キティ・グリーンが初めて長編劇映画のメガホンをとり、数百件のリサーチとインタビューで得た膨大な量の実話をもとにフィクションとして完成させた。名門大学を卒業したジェーンは、映画プロデューサーを目指して有名エンタテインメント企業に就職する。業界の大物である会長のもとでジュニア・アシスタントとして働き始めたものの、職場ではハラスメントが常態化していた。チャンスを掴むためには会社にしがみついてキャリアを積むしかないと耐え続けるジェーンだったが、会長の許されない行為を知り、ついに立ちあがることを決意する。
ジェーンの置かれた状況が自分自身と重なり、とにかく全編、みているのが辛かった。
映画業界の会長のアシスタントとして誰よりも早く出社し、他人のために準備をし、細やかな「ケア」労働をするが、誰にも感謝されない。名前さえ呼ばれない。
映画はジェーンのある1日の仕事を映し出しており、会議の準備・後片付けや出張の手配、会長の薬からその妻からの問い合わせへの対応など多岐にわたり、1日にこれだけの業務をこなしているのかと驚くほど。アシスタントは辛い。
会議のあと、散らかり放題となった部屋の後片付けをするジェーンに対し、「清掃員を雇っているからそんな仕事はしなくていい」とかけられた言葉にもハッとさせられるものがあった。
ジェーンはよく気が付いて、仕事熱心なのだ。それゆえ、業務過多になる。
同僚のアシスタントは2人いるがどちらも男性で、典型的ホモ・セクシュアルな人間関係を築いている。おそらく悪気はないのだけれど、そこに割って入ることはできない。
ハーヴェイ・ワインスタインをモデルにした会長は典型的なハラスメント体質で、ジェーンに対して厳しいことを言ったかと思えば、期待しているからそうしているのだとも言う。
名門大学を卒業し、狭き門を突破して現在の職に就き、映画プロデューサーを目指すジェーンにとって、この会長の態度ではすっぱりやめられないのも当然だ。
映画で描かれる1日は、ジェーンにとっては日常なのだろう。
しかし、ある大きな問題が起こる。会長権限で雇われた若い女性が会社に訪ねてきて、同じアシスタントとして雇われたジェーンにはなかった待遇を受ける。
女性をホテルへ送るジェーンだが、会長の目的、つまり仕事ではなく、性の対象として女性を雇ったのではないかと疑いを持つ。
会社の人事部に相談に向かうジェーンだが、そこで同部の男性に全て否定された上、君は会長の好みではないから大丈夫だとまで言われてしまう。
巨大な権力構造の下で起こる暴力を隠蔽する構造。
ジェーンの置かれた状況と自分が重なったと書いたが、私はここまでの状況にはない。
ただ、会社・組織の中で少しずつ心を削られていく状況はよくわかる。悪気はなくとも、ジェーンの同僚男性のような態度の人間は多くいる。私自身、逆に、人を傷つけている場合もある。
あまりにジェーンにとって救いがないので(両親は味方だが、映画業界に就職した娘を誇りに思っているようだ。相談はしづらいだろう)、『SHE SAID その名を暴け』を観たくなった。
映画とは直接関係はないが、私も日本映画学校で学び、一時は映画業界への就職を考えていた身だ。
学生時代はジェンダー平等なんて言葉も知らなかったけれど、なんとなく男性中心の業界に違和感を持ち、映画業界の就職はやめた。
編集ゼミだったので編集技師や、映画の予告編会社(当時、おもに2つの会社が予告編をつくっていると言われていた)の話を聞く機会があり、「お茶汲み」について聞いた記憶がある。
「下っ端がやるということではなく、アシスタントは仕事が一人前にできるわけではないので、みんなが快適に仕事をするための一環としてのお茶汲み」だというのが答えだったと記憶している。
アシスタントに求められるのはとにかく、ケア労働なのだ。
しかしアシスタントだからそれをやって当たり前ということではなく、その仕事に対しての感謝の言葉の一つでもあれば、また違ってくるだろう。
ジェーンのように名前も呼ばれず、感謝もされずに、淡々とケア労働をこなし続けることはできるだろうか。
(ちなみにその予告編制作会社は入社後3ヶ月はインターン扱いで無給と公言しており、当時も今もおかしいとは思っている)
ナーサ・ニ・キアナン『ぼくたちの哲学教室』(2023.7.16@元町映画館)
ケネス・ブラナーの自伝的映画『ベルファスト』も記憶に新しいが、こちらは北アイルランド紛争真っ只中の1969年を舞台にしており、ベルファストが今どういう状況に置かれているかはほとんど知らなかった。
『ぼくたちの哲学教室』で映されるベルファストの街は、昔ほどの暴動はないにしても、校門前に爆弾が置かれ児童が避難する様子や、そこかしこの壁に描かれる政治的・宗教的なメッセージの込められた壁画、ゴミが散乱し、殺伐とした雰囲気を感じる街の風景。
何より、壁(「平和の壁」と言って、ユニオニストとナショナリストの居住地を分断する壁らしい。映画を鑑賞後、検索していて知った)が、重苦しい気持ちにさせる。
【ベルファスト】21世紀に残る対立の痕跡「平和の壁」が分断するもの
集合住宅が並ぶ画一的な街は、私の故郷であり、今も住む日本の団地にも似た印象を抱かせ、貧しさを感じざるを得ない。
『ぼくたちの哲学教室』は、北アイルランド紛争が今も暗い影を落とすイギリス・北アイルランド、ベルファストのホーリー・クロス男子校(小学校)で行われている哲学の授業を題材にしたドキュメンタリー。
哲学の授業は、ケヴィン校長が受け持っている。ケヴィン校長が大のエルヴィス好きであることは子どもたちや同僚の先生にも知られていて、要所要所で笑いを誘うエッセンスになっている。
暴力が暴力をよび、命の危険に晒されてきたベルファスト。
暴力の連鎖を止めるための教育、「哲学教室」なのだ。
哲学の授業を受けているとはいえ、男の子ばかりが集まる学校で、日々、問題は起こる。
そのたびにケヴィン校長は、当事者の児童を「思索の壁」に誘い、哲学的な問いによって自らの行動を振り返らせ、次に何をすべきか自らの力で引き出していく。
困難な状況に遭ったとき、怒りから突発的に行動してしまうことについて、「状況や自分の感情と距離を置く」ことをケヴィン校長は繰り返し伝える。
そのためのそれぞれに合った方法を、子どもたちは自ら考えて生み出していく。
親子関係がうまくいっていない家庭に出向き、「タイムトラベルは可能か」という問いを立てたシーンは逸脱だと思った。
子は可能、親は不可能の立場で、なぜそう思うのか相手に伝えるために議論が白熱していた。
別のシーンで、学校に集まった保護者を前に、ケヴィン校長は、自分がわからないことは素直にわからないと子どもたちに言いましょうとも言う。
映画は編集されているので、実際の子どもたちがどんなテンポで哲学的な問いに答えているのかはわからないが、臆せず、思ったことを言う。
ある意見に対し、自分は反対のことを思ったということも、堂々と発言する。
バカにしたような笑いが起こった際には、その都度ケヴィン校長が、どんな意見にも価値があることを繰り返し伝えていく。
学校から一歩外に出れば今も厳しい環境にあるベルファストという街の中で、いかに学校を安心できる場にしていくか、ケヴィン校長をはじめとした大人たちが苦心する様子が切に迫ってくる。
先生たちは子どもたちに、みんな特別で大切な存在であることを何度も何度も言葉にする。
問題行動を起こしたある男の子は、どうしてそうしてしまったのかを問われ、糖尿病だと診断された不安、お父さんと会う時間が少ないことを素直に打ち明ける。
食事制限をしなければならないと言われたがしたくないと言い、好きな食べ物の話になると途端に饒舌になる。妹の話に及ぶと、いきいきした顔になる。
生きる力や、辛いことを乗り越える力がわいてくる。何度折れたとしても、正しい導きで変わることができる。
資本主義社会にある以上、資本主義社会で勝ち残っていくための競争の原理が学校に持ち込まれているのは、日本だけではないだろう。
学校教育も全て人間が行うものである以上、その呪縛から逃れることはできない。
以前、井谷聡子さんの講義で聞いた「Sex is Gender」というジュディス・バトラーの言葉を思い出していた。
科学や医療でさえ、それが人によるものである以上、本当に公平で公正なものであるかということはわからない。
しかし最低限、学校をはじめとした公教育の場や、公立の文化施設や公的サービスだけでも、資本主義の枠組みから人々を解放し、本当に安心していられる場をつくる必要があると思う。
(元町映画館をはじめ、民間の映画館や劇場がそのような信念や理念を持つ人々に支えられていることに胸が熱くなる)
映画上映後の哲学ワークショップに参加するつもりで、上映時間の30分前に映画館に着いたのだけど、15名の枠はすでにいっぱいだった。
また映画自体、補助席が出るほどの盛況ぶりだった。
ベルファストに住む子どもたちの保護者(大人)と同様、私たち日本の大人も、子どもの頃にこのような導きがあればと願った人は少なくないだろう。
もう子ども時代には戻れない。戻ったとしても、そのような導きに出会えるとはかぎらない。
経験していないことを実行することはむずかしいが、気づいた人から実践していくことで、世界はこれまでに少しずつ変わってきた。
社会、自分が所属するコミュニティで、自分は大切にされてきたという思いが帰属意識を生む。法律やルールではなく、信頼関係によって人は結ばれている。
心があたたかくなるとともに、大人として、社会の一員としてどう振る舞うべきか(たとえそれが常に実行できなかったとしても)、考えさせられた。
(男の子たちが哲学的な問いによって変化していく様は、『ウーマン・トーキング』で村を去る女性たちがオーガストに託した「男の子たちを教育して」という願いへのある一つの答えのような気がした)
ケヴィン校長がジムで同僚の女性の体型を揶揄したのを残念に思ったのと、最後に完成する壁画がオールメン(そもそも古代哲学者は全員男性)であること、舞台がカトリックの男子校であることは留保する必要があるかなとは思いました。
哲学WS、参加したかったなー!
帰りは時間ができたので、横尾忠則現代美術館『原郷の森』を予定よりゆっくりとみてまわった。
ポリタスTVで平野啓一郎さんが、三島由紀夫『仮面の告白』を読み返したって話をしていて読みたくなりちょうど持ち歩いて読んでいたので、ここでも三島由紀夫!と、妙な縁を感じた。
井谷聡子さんの講義に感銘を受けた話(2023.6.10@宝塚)
東京オリンピック2020に反対するデモでの発言から、井谷聡子さんを知った。
コロナ禍での開催、IOC会長・森喜朗氏(自身の発言がもとで会長を下りたが)による女性蔑視発言、何より誘致時点で嘘をつき、汚職にまみれた散々なオリンピックではあったけれど、それらに対しては明確な批判ができる。
しかしトランスジェンダーの選手に対してのバッシングを自分なりにどう受け止めればいいのか、全くわからないでいた。
そんなときに井谷聡子さんの主張に触れ、新鮮な感動を覚えた。
YouTubeでヒットする動画は大体視聴したはず。
特に、エトセトラブックスの松尾さんとのトーク動画は何度みても素敵。
【ゲストトーク】NO.3 ゲスト:井谷聡子さん - YouTube
「ハルマゲドン日本?! のオリンピック」井谷 聡子:オリンピックのジェンダー・ポリティクス - YouTube
(個人的に。私も中学(と高校の春休みまで)まで部活をやっていたのと、西宮市出身という共通点があり、それも興味をひかれるきっかけだと思う。そして陸上部だった頃の友達と井谷さんがとても似ている)
井谷さんはSNSもやっておらず(やってたら教えてほしい)、ネット上での情報に乏しく、一般にひらかれた講演会に登壇するという情報もあまりない。
いつものようにフェミニズム関係の公開講座をWANのイベント情報を探していたときに、たまたま、宝塚市立男女共同参画センターの企画に井谷さんが講師として登壇される情報を見つけ、即日申し込んだ。
この講座は「ジェンダーと私と違和感」と題される4人の講師による連続講座で、井谷さんの講座タイトルは「多様な性のあり方が尊重される社会をめざして」。
まず、この6月はプライド月間であること、しかしそのプライド月間中に、国会をはじめさまざまな場で差別的言説が起こっていること。井谷さんとは関西大学での同僚にあたり、身近な存在である弁護士の仲岡しゅんさんが命を脅かされる脅迫を受けていることなどが、語られる。
レジュメのはじめに引用された言葉。
「女性の劣等生を証明するために、アンチ・フェミニズムはかつてのように宗教、哲学、神学を引き合いに出すだけでなく、科学も利用するようになった。生物学、実験心理学などだ」—シモーヌ・ド・ボーヴォワール『第2の性』1949年
井谷さんは、「女性の劣等生は科学的な原則に基づいている」とするダーウィンの言説や、これまでの「科学」が女性の劣勢、「男と全く異なる存在としての女」という既存の考え方にお墨付きを与えてきた歴史を解説。
ここから、「生物学的決定論」(人間の能力の差を遺伝に帰し、人種差別や女性差別を正当化しようとする議論)とスポーツの関係について論が展開されていく。
ここで私は、アスリートに行われる「性別確認検査」が女性アスリートにしか行われないことをはじめて知る。
余談になるが、わたしは中学の頃そこそこ強い陸上部に所属し、長距離種目を走っていた。小学校の頃からマラソン大会が大好きで走るのが好きだったから、部活には相当入れ込んでいた。
しかし中2の夏頃から思うように走れなくなり(体の変化が起こっていたのではないかと思う。オスグッドも抱えていたけれど)、中3の夏に引退。引退してすぐ、生理を迎えた。
今思うと私たちは、男子も女子も、自らの体がどう変化していくのかもわからずに、体に負荷を与えるスポーツをしていた。
私だけではなく、中2頃にいきなりタイムが落ちる同級生もいて(その子はその後急激にタイムが伸びることも経験)、今思うと体の変化が関係していたと思うのだ。
どうして思うように走れなくなってしまったのか、自分を責める前に、自分の体のことさえよくわかっていなかった。
話を井谷さんの講義に戻す。
「近代的な身体」としての男性身体は、「労働する性」「戦う性」とみなされ、近代社会・国民国家の成立は、成人男性に対する徴兵制をしばしば伴った。
国家が「強くたくましい男性身体」を求めるようになる。
一方女性は「産む性」として、外で溌剌とするのではなく、家庭で静かに暮らす「弱き性」とされていく。これには当時身、体のエネルギーは有限だと思われていたことも影響する。
男女の体は絶対的に違うという身体観が、科学的言説によって強化されていく。
よく知られるとおり、近代オリンピックの創始者・クーベルタン伯爵は女性蔑視、優生思想の持ち主で、女性がオリンピックに参加したのは第2回(1900年)からだ。と言っても種目はテニス・ゴルフに限定され、肌を隠す長袖とロングスカートという出立ちで行われたそうだ。
しかしすでにこのとき、第一波フェミニズムが起こっていたことを無視はできなかった。
【オリ・パラ今昔ものがたり】オリンピックは女性に優しくなかった | 日本財団
1928年、日本人女性としてはじめてオリンピック出場を果たし、800mで銀メダルを獲得した人見絹枝選手が有名だが、800mを走り終えた女性選手たちがバタバタと倒れる姿を見て、「女子にはできない」種目だとしてその後、1960年まで競技種目から外されることとなる。
団体種目は個人競技に比べ肉体のぶつかり合いが激しく、導入が遅れている。団体競技としてははじめて、バレーボールが1964年大会から実施されている。
そのほかさまざまな変遷があるが、陸上競技800mのように、一度競技種目入りしたものの外され、のちに復活している競技もある。
1967年には、当時女子の参加は「想定されていなかった」、つまり想定されていなかったためにエントリー要項にも「女性禁止」と書かれていなかったボストン・マラソンに、キャサリン・シュワイツァーが参加。
競技中に大会関係者の妨害に遭うも、理解ある仲間の男性の助けもあり、完走。その後、1972年に、女子マラソンも公式競技となったそうだ。
いま当たり前にある近代オリンピックや競技スポーツは、こうして、排除された女性たちが必死で勝ち取ってきた権利なのだと知る。
女性たちが権利を勝ち取ってきた一方、いまだ取り残されているのが性的マイノリティのアスリートだ。「たくましい男性アスリート」=「真の男」という図式から、ゲイアスリートは不可視化され、秘匿せざるを得なかった。
しばしばカミングアウトは、競技の引退を意味した。
もちろんレズビアンのアスリートにも偏見があり、「真の女」ではない、半分男、精神的な男というスティグマを刻まれた。
そして何よりいま、トランスジェンダー、男性から女性へとトランスした選手へのバッシングがいま苛烈になりつつある。
ここで講義は休憩に。
井谷さんから参加者へ、「Sex = gender」(哲学者:ジュディス・バトラーによる言葉)という言葉の意味について休憩後に意見交換しましょうと課題が与えられる。
近くに座っている3〜4人でグループをつくって意見交換をしたのだが、みんな「わからない」と言う。
意見交換後、2グループがどういう意見交換をしたのか発表したが、この言葉の意味がわからなかったのか、ジェンダーについての意見交換になったらしいことがうかがえた。
私自身、井谷さんの講義を受けるまで「セックスとは生物学的な、身体的性別のこと/ジェンダーとは文化的・社会的につくられた性別のことであり、両者は対義語である」と思っていた。
しかし井谷さんの講義を受けるうちに、どうやらそれが間違っていたということ、「科学的」とされる言説でさえ、それを扱う人の理解に委ねられていることを感じていた。うまく説明できたわけではないけれど。
「Sex = gender」とはどういう意味か、井谷さんの説明は私の予想と遠いものではなかったが、この講義を聞かなければ全く意味がわからなかっただろう。
曰く、現在女性アスリートに対して行われている性別確認検査は「テストステロン(男性ホルモン)」の値を指標としているが、
- テストステロンと競技力との関係性については結論が出ていない
- テストステロンが一般に増強する筋肉量は、競技力に影響を与えるさまざまな要素の一つにすぎない
- スポーツで勝利するために男性が性転換を行なった事例は過去にない
とのこと。
現時点において、性別確認検査をクリアしているアスリートに対してのバッシングは、不当というほかない。
「性自認(gender identity)は真摯なものである」という大前提がある。
そもそもトランジションは困難なプロセスである。身体への負荷がかかるものをアスリートが選択するという事実は非常に重い。
ここから、「スポーツにおけるフェアとは何か」を井谷さんは問う。
身体、環境、経済的な差。アスリートはそれぞれの差異を背負い、時にその差異をものともせず勝利を勝ち取る。
自明のように扱われる「スポーツ文化」とは、「競技」とは一体なんなのか。
特に学校教育の場で行われるスポーツには、より問われる必要がある。
更衣室の問題について、身体を見られることに抵抗があるのは、何もトランスジェンダーの人だけではない。
ユニフォームについても、性別による差異を設けない、必要のない露出を避けるなどの配慮も必要だ。
報道、観客の姿勢についても問われる。
この点は、アスリート本人が声を上げることも増えてきており、本当に社会は変わりつつあるのだと感じる。
最後に井谷さんは、「なぜ人々はスポーツや運動に取り組むのか?」を問う。
競技スポーツは容易に、資本主義や全体主義に絡め取られる危険性がある。
人生の究極的な目標とは、誰もが幸せで意味のある人生を送ることなのではないのか、と。
日本が今後「スポーツ立国」を目指すのなら、当然考えなければならない課題だろう。
社会的な場から女性を排除することを正当化するために歴史的に繰り返し登場してきた「生物学的決定論」が、トランスジェンダーの人権と権利をめぐる議論の中で再燃していること。
男女の「自然視」されてきた身体差や身体的特徴が実は、社会的に構築されたものである。
井谷さんは「身体とスポーツ・パフォーマンスについての思い込みの克服と同時に、既存のスポーツの構造・文化そのものの変容も必要である」と締め括った。
これは私自身、まだどう理解していけばいいのか迷っており、課題だ。
競技スポーツをなくすということか? それとも競技スポーツにどう「フェアネス」を担保していくのか。
近代オリンピックが起こってたかだかまだ100数十年。誰もが排除されない社会を目指す中で、考えていきたい。
未来永劫変わらずに続くものなんて、ないのだから。
講義のあと数日が経って、このようなニュースがTwitterでまわってきた。
井谷さんの講義への理解をさらに深めるものとなり、ありがたかった。