井谷聡子さんの講義に感銘を受けた話(2023.6.10@宝塚)

講義のレジュメとチラシ、井谷聡子責任編集『エトセトラ』

東京オリンピック2020に反対するデモでの発言から、井谷聡子さんを知った。

コロナ禍での開催、IOC会長・森喜朗氏(自身の発言がもとで会長を下りたが)による女性蔑視発言、何より誘致時点で嘘をつき、汚職にまみれた散々なオリンピックではあったけれど、それらに対しては明確な批判ができる。

しかしトランスジェンダーの選手に対してのバッシングを自分なりにどう受け止めればいいのか、全くわからないでいた。

そんなときに井谷聡子さんの主張に触れ、新鮮な感動を覚えた。

 

YouTubeでヒットする動画は大体視聴したはず。

特に、エトセトラブックスの松尾さんとのトーク動画は何度みても素敵。

 

【ゲストトーク】NO.3 ゲスト:井谷聡子さん - YouTube

 

「ハルマゲドン日本?! のオリンピック」井谷 聡子:オリンピックのジェンダー・ポリティクス - YouTube

 

(個人的に。私も中学(と高校の春休みまで)まで部活をやっていたのと、西宮市出身という共通点があり、それも興味をひかれるきっかけだと思う。そして陸上部だった頃の友達と井谷さんがとても似ている)

 

井谷さんはSNSもやっておらず(やってたら教えてほしい)、ネット上での情報に乏しく、一般にひらかれた講演会に登壇するという情報もあまりない。

いつものようにフェミニズム関係の公開講座WANのイベント情報を探していたときに、たまたま、宝塚市立男女共同参画センターの企画に井谷さんが講師として登壇される情報を見つけ、即日申し込んだ。

 

この講座はジェンダーと私と違和感」と題される4人の講師による連続講座で、井谷さんの講座タイトルは「多様な性のあり方が尊重される社会をめざして」

 

まず、この6月はプライド月間であること、しかしそのプライド月間中に、国会をはじめさまざまな場で差別的言説が起こっていること。井谷さんとは関西大学での同僚にあたり、身近な存在である弁護士の仲岡しゅんさんが命を脅かされる脅迫を受けていることなどが、語られる。

 

レジュメのはじめに引用された言葉。

「女性の劣等生を証明するために、アンチ・フェミニズムはかつてのように宗教、哲学、神学を引き合いに出すだけでなく、科学も利用するようになった。生物学、実験心理学などだ」—シモーヌ・ド・ボーヴォワール『第2の性』1949年

 

井谷さんは、「女性の劣等生は科学的な原則に基づいている」とするダーウィンの言説や、これまでの「科学」が女性の劣勢、「男と全く異なる存在としての女」という既存の考え方にお墨付きを与えてきた歴史を解説。

 

ここから、「生物学的決定論」(人間の能力の差を遺伝に帰し、人種差別や女性差別を正当化しようとする議論)とスポーツの関係について論が展開されていく。

 

ここで私は、アスリートに行われる「性別確認検査」が女性アスリートにしか行われないことをはじめて知る。

余談になるが、わたしは中学の頃そこそこ強い陸上部に所属し、長距離種目を走っていた。小学校の頃からマラソン大会が大好きで走るのが好きだったから、部活には相当入れ込んでいた。

しかし中2の夏頃から思うように走れなくなり(体の変化が起こっていたのではないかと思う。オスグッドも抱えていたけれど)、中3の夏に引退。引退してすぐ、生理を迎えた。

今思うと私たちは、男子も女子も、自らの体がどう変化していくのかもわからずに、体に負荷を与えるスポーツをしていた。

私だけではなく、中2頃にいきなりタイムが落ちる同級生もいて(その子はその後急激にタイムが伸びることも経験)、今思うと体の変化が関係していたと思うのだ。

どうして思うように走れなくなってしまったのか、自分を責める前に、自分の体のことさえよくわかっていなかった。

 

話を井谷さんの講義に戻す。

「近代的な身体」としての男性身体は、「労働する性」「戦う性」とみなされ、近代社会・国民国家の成立は、成人男性に対する徴兵制をしばしば伴った。

国家が「強くたくましい男性身体」を求めるようになる。

 

一方女性は「産む性」として、外で溌剌とするのではなく、家庭で静かに暮らす「弱き性」とされていく。これには当時身、体のエネルギーは有限だと思われていたことも影響する。

男女の体は絶対的に違うという身体観が、科学的言説によって強化されていく。

 

よく知られるとおり、近代オリンピックの創始者クーベルタン伯爵は女性蔑視、優生思想の持ち主で、女性がオリンピックに参加したのは第2回(1900年)からだ。と言っても種目はテニス・ゴルフに限定され、肌を隠す長袖とロングスカートという出立ちで行われたそうだ。

しかしすでにこのとき、第一波フェミニズムが起こっていたことを無視はできなかった。

【オリ・パラ今昔ものがたり】オリンピックは女性に優しくなかった | 日本財団

 

1928年、日本人女性としてはじめてオリンピック出場を果たし、800mで銀メダルを獲得した人見絹枝選手が有名だが、800mを走り終えた女性選手たちがバタバタと倒れる姿を見て、「女子にはできない」種目だとしてその後、1960年まで競技種目から外されることとなる。

 

団体種目は個人競技に比べ肉体のぶつかり合いが激しく、導入が遅れている。団体競技としてははじめて、バレーボールが1964年大会から実施されている。

そのほかさまざまな変遷があるが、陸上競技800mのように、一度競技種目入りしたものの外され、のちに復活している競技もある。

 

1967年には、当時女子の参加は「想定されていなかった」、つまり想定されていなかったためにエントリー要項にも「女性禁止」と書かれていなかったボストン・マラソンに、キャサリン・シュワイツァーが参加。

競技中に大会関係者の妨害に遭うも、理解ある仲間の男性の助けもあり、完走。その後、1972年に、女子マラソンも公式競技となったそうだ。

 

いま当たり前にある近代オリンピックや競技スポーツは、こうして、排除された女性たちが必死で勝ち取ってきた権利なのだと知る。

 

女性たちが権利を勝ち取ってきた一方、いまだ取り残されているのが性的マイノリティのアスリートだ。「たくましい男性アスリート」=「真の男」という図式から、ゲイアスリートは不可視化され、秘匿せざるを得なかった。

しばしばカミングアウトは、競技の引退を意味した。

 

もちろんレズビアンのアスリートにも偏見があり、「真の女」ではない、半分男、精神的な男というスティグマを刻まれた。

そして何よりいま、トランスジェンダー、男性から女性へとトランスした選手へのバッシングがいま苛烈になりつつある。

 

ここで講義は休憩に。

井谷さんから参加者へ、「Sex = gender」(哲学者:ジュディス・バトラーによる言葉)という言葉の意味について休憩後に意見交換しましょうと課題が与えられる。

 

近くに座っている3〜4人でグループをつくって意見交換をしたのだが、みんな「わからない」と言う。

意見交換後、2グループがどういう意見交換をしたのか発表したが、この言葉の意味がわからなかったのか、ジェンダーについての意見交換になったらしいことがうかがえた。

 

私自身、井谷さんの講義を受けるまで「セックスとは生物学的な、身体的性別のこと/ジェンダーとは文化的・社会的につくられた性別のことであり、両者は対義語である」と思っていた。

しかし井谷さんの講義を受けるうちに、どうやらそれが間違っていたということ、「科学的」とされる言説でさえ、それを扱う人の理解に委ねられていることを感じていた。うまく説明できたわけではないけれど。

 

「Sex = gender」とはどういう意味か、井谷さんの説明は私の予想と遠いものではなかったが、この講義を聞かなければ全く意味がわからなかっただろう。

 

曰く、現在女性アスリートに対して行われている性別確認検査は「テストステロン(男性ホルモン)」の値を指標としているが、

  • テストステロンと競技力との関係性については結論が出ていない
  • テストステロンが一般に増強する筋肉量は、競技力に影響を与えるさまざまな要素の一つにすぎない
  • スポーツで勝利するために男性が性転換を行なった事例は過去にない

とのこと。

現時点において、性別確認検査をクリアしているアスリートに対してのバッシングは、不当というほかない。

 

性自認(gender identity)は真摯なものである」という大前提がある。

そもそもトランジションは困難なプロセスである。身体への負荷がかかるものをアスリートが選択するという事実は非常に重い。

 

ここから、「スポーツにおけるフェアとは何か」を井谷さんは問う。

身体、環境、経済的な差。アスリートはそれぞれの差異を背負い、時にその差異をものともせず勝利を勝ち取る。

自明のように扱われる「スポーツ文化」とは、「競技」とは一体なんなのか。

特に学校教育の場で行われるスポーツには、より問われる必要がある。

 

更衣室の問題について、身体を見られることに抵抗があるのは、何もトランスジェンダーの人だけではない。

ユニフォームについても、性別による差異を設けない、必要のない露出を避けるなどの配慮も必要だ。

報道、観客の姿勢についても問われる。

この点は、アスリート本人が声を上げることも増えてきており、本当に社会は変わりつつあるのだと感じる。

 

最後に井谷さんは、「なぜ人々はスポーツや運動に取り組むのか?」を問う。

競技スポーツは容易に、資本主義や全体主義に絡め取られる危険性がある。

人生の究極的な目標とは、誰もが幸せで意味のある人生を送ることなのではないのか、と。

 

日本が今後「スポーツ立国」を目指すのなら、当然考えなければならない課題だろう。

 

社会的な場から女性を排除することを正当化するために歴史的に繰り返し登場してきた「生物学的決定論」が、トランスジェンダーの人権と権利をめぐる議論の中で再燃していること。

男女の「自然視」されてきた身体差や身体的特徴が実は、社会的に構築されたものである。

 

井谷さんは「身体とスポーツ・パフォーマンスについての思い込みの克服と同時に、既存のスポーツの構造・文化そのものの変容も必要である」と締め括った。

 

これは私自身、まだどう理解していけばいいのか迷っており、課題だ。

競技スポーツをなくすということか? それとも競技スポーツにどう「フェアネス」を担保していくのか。

近代オリンピックが起こってたかだかまだ100数十年。誰もが排除されない社会を目指す中で、考えていきたい。

未来永劫変わらずに続くものなんて、ないのだから。

 

講義のあと数日が経って、このようなニュースがTwitterでまわってきた。

井谷さんの講義への理解をさらに深めるものとなり、ありがたかった。

揺れる性別の境界 | Nature ダイジェスト | Nature Portfolio