映画『最も危険な年』上映会+対談会(2023.7.22@大阪弁護士会館)

大阪弁護士会主催/映画『最も危険な年』上映会・対談会に参加。

 

同性婚アメリ最高裁で認められたことにより、保守派の標的がトランスジェンダーのトイレ問題に変わった2016年。

これは、トランスジェンダーの子どもを持つ家族の姿を追ったドキュメンタリー作品。

 

まず、アメリカではこんなに小さい子どもが「トランスジェンダー」として周囲にも認知され生きているのかと驚いたが、私が知らないだけで日本にも自助グループがあるそうだ。

 

どの子にも共通しているのは、成長に伴い自らの出生児の性別に違和感を持ち、「生まれてこなければよかった」と抑うつ的な状態に置かれ、性自認を周囲に認められ、自らの思うように生きられるようになってはじめて本当の自分の人生を生きることをはじめられたと感じていることだ。

 

トランスジェンダー精神疾患の発病率が高いと言われるが、実際には、性自認を尊重され、サポートを受けているトランスジェンダー精神疾患発病率は一般的な発病率と大差はないのだそう。

 

子どもたちを守ろうと奮闘する親たちの「我が子の市民としての権利を守るたたかいだ」という言葉が印象的だ。

トランスジェンダーへの差別は生死に関わる問題であり、「社会を直す」必要がある。

 

対して差別する側は、人の心に恐怖を植え付ける「脅迫法」を用い、トランスジェンダーは本来「存在しないお化け」「幻想」などと主張する。

 

日本でも昨今、トランスジェンダー、とりわけトランス女性の「トイレ・銭湯問題」を盾にした差別が繰り広げられており、全く同じことが何年も前にアメリカで起こっていたのだ。

カメラを向けられた彼らは、トランスジェンダー女性が女性トイレを使用したことで起こる犯罪の具体例については答えられない。

 

女性トイレに侵入するため「女装した男性」はトランスジェンダーではなくれっきとした犯罪者であり、それは従来の法律で罰することができる。

日本でも今年、「LGBT理解増進法」の成立過程で全く同様の言われなき差別が急速に広まり、「全ての国民が安心して生活できるよう留意する」という文言が維新・国民によって書き加えられた。

そもそも問題は、マイノリティの安全をどう保障するかということであり、全ての国民の安全は、従来の法律で対応できることだ。

日本のトランス差別は、アメリカでのこのたたかいから大いに学んだということなのだろう。同じことを繰り返している。

 

デモに参加したトランスジェンダー男性の子どもの発言、「自分の性器を他人に見せたくはない」という発言が印象的で、これに尽きると感じた。

 

ワシントン州において、右派勢力はトランスジェンダー性自認に基づくトイレ利用を制限する法案の成立に向け署名を起こす。

一方トランスジェンダーの子を持つ親たちは子どもの権利を守るため、議会の公聴会等、公の場に出向き、たたかう。

 

トランスジェンダーのトイレ利用によって犯罪が増えると主張する右派勢力に対し、警察からも、「トランスジェンダーの人がトイレで犯罪したことはない」ときっぱり反論される。右派勢力の「犯罪が増える」という主張の根拠は何もないのだ。

また、メディアや映画で描かれるトランスジェンダーの姿が偏見を助長しているということも指摘される。

 

人々は何度も、アメリカが経験した過ちー黒人差別の歴史に触れる。

「分離すれど平等」の欺瞞。今はそれが、トランスジェンダーに向けられていると語られる。

何も罪を犯していないという人間を、「黒人だから」「トランスジェンダーだから」「不快だから」というだけで分離し、隔離・孤立させる権利は誰にもない。

それは、「市民としての権利」を制限させることだ。

 

障害者、黒人、女性……。家父長制を基盤に、権力者層(その多くはシス男性だ)がマイノリティを抑圧してきたのが人類の歴史。

いま、トランスジェンダーがその標的となっている。

 

映画の最後には、トランスジェンダーのトイレ利用を制限する法案が退けられる。

トランスジェンダーの子を持つ親は言う。

「私たちはすでに勝っていた。「自分を愛する」ことの大切さを我が子に教えるという、親として大事な仕事を終えていた」と。

 

休憩を挟み、仲岡しゅん弁護士、金友子さん、西田彩さんによる映画を踏まえての対談。

 

まずは、映画の感想から。

 

(金さん)アメリカの「平等」の概念。マイノリティのたたかいの上に、今のトランスジェンダーのたたかいがある。アメリカでは(黒人に対しての)「分離・隔離」政策への批判意識の共有が前提としてある一方、日本では関東大震災の虐殺さえ検証も謝罪もされていない。

 

(仲岡さん)「保守的なトランス当事者」を称している。当事者は理想論で生きているわけではない。男女二元論の社会の隙間を生きなければならないということを自覚している。そういう意味で、映画は、冷めた目で見ている部分もあった。本質は「トイレ・風呂」にはない。どちらにしろ、ほっといてくれという気持ち。

 

(西田さん)映画はアメリカが舞台だから、アメリカの歴史の上に立つものになっている。親が子を守ろうとする姿には、日本との共通点を感じた。当事者は孤立しやすい。今はインターネットを通じて当事者同士がつながりやすくはなったが、親の孤立は課題として残る。また、ネット上にも差別が溢れている。

(これを聞いて、不登校の子どもを持つ親たちの自助グループを思い出した)

 

(西田さん)映画には低年齢の子どもたちが多く出ている。発達過程でどうジェンダーアイデンティティを形成していくのか(今はこれを「エクスペリエンス・ジェンダー」と言うとのこと)。

 

帰属意識」、男/女/ノンバイナリー、自分がどこに所属するのかを言語化する能力も必要。つまり、圧倒的多数の言葉で埋め尽くされた世界で、マイノリティは、自分を表現する言葉をつくることを求められる。

当事者は、一貫・安定した自分を築けないこと、自認と周囲からの扱いの違いに苦しんでいる。

 

(仲岡さん)映画で引っかかった点は、いくつかある。

ジェンダーアイデンティティ脳科学・医学によって根拠づけられているという主張への違和感。

「心の性」という表現は間違っている。自分の体をどうしたら動かしやすくなるか、生活しやすくなるか、『攻殻機動隊』の義体のようなものだと説明している。

 

映画の女の子(トランス女性)は、女の子が好きだと言われるジェンダー・バイアスに基づいた趣向を示しており、引っかかった。

もしかしたらこの先の長い人生で、違う認識になる可能性もある。

 

トランスとそうでない人を見分ける必要はない。

必要なことは、その人が何に困っているのか、その困りごとに対して対応することが

大事。特に、映画に出てくる子どもたちは幼いので、本人にもまだはっきりわかっていない可能性がある。

 

(西田さん)男・女が好むもの、そういう土台の上でしかトランスジェンダーを理解できないという世間の問題がある。「心の性」という言葉は、「性同一性障害」という言葉がつくられたときに生まれた。心の性と身体の性が違うということでわかりやすいとされたが、それによって当事者の苦しみが生まれている。

 

(仲岡さん)単純に、「生まれたときと違う性で生きている人」

長い時間をかけ、性別の根本を切り替えてきている。トランジションする際には当然、人間としての生き方にも変化がある。

 

(西田さん)自認する性別のトイレを使っている当事者は、3割ほどだという調査結果がある。

特に大きな変化があるのは第二次性徴の前後。自分を肯定的にとらえられるかが重要で、トランスであるかどうかは関係がない。

その人が表現する性を尊重すること。

そもそも当事者はトイレどころか、学校に行けなくなる、家からも出られなくなるということも多い現状。

「怖い」という恐怖の感覚を利用して差別が行われる。

ありもしない「マジョリティの妄想」。

 

トイレ問題について、大別すると2つにわかれる。

①性犯罪者が性別を装う道をひらく

②トランス女性は身体が男性だという偏見

 

①は防犯の問題であり、現状でも性別関係なく処罰されるもの

②は不快感や不安を蓑にして、「誰が女性か」を判断する権利は自分にあるとする傲慢な考え方。基準は常に差別側が握っており、排除するための基準をつくっている。

それらが一部フェミニストと結託していることの問題もある。

 

身体ではなく、「女性としての経験」を基準にするという主張もある。

自分たちと同じだとは思っていない。

日本国籍をとった韓国人は何人か」という差別発言にも通じる。

 

(仲岡さん)身体を女性としてもって生まれた人は弱者とされ、トランス女性はその点で強者だとされるが、自分にとって男性身体をもつことは呪いだった。

トランス排除で、女性の安全は本当に保たれるのか? 女子トイレに侵入しようという悪意のある人間はそれで諦めないだろう。

 

司法試験のとき、トイレは使わなかった。自分も他の受験生も、人生をかけて受験をしにきている。そんな場で、波風を立てたいとは思わない。

また、障害のある受験生のことを考えると、障害者用トイレを使うこともためらわれたため、試験会場とは異なるビルのトイレを使用した。

当事者はこのようにして日常を生きている。この苦労を無視している。

後年、同じ試験会場にトランス当事者がいたことを知った。

 

(西田さん)「トランス女性はいかに排除されるべきか」ということばかりが語られている。「当事者はいかに安全に生きるか」苦心している現実がある。

 

小学校〜高校まで、秘匿し、出生児と異なる性で過ごす子どももいるが、女子大学に入学しようとするとそこで排除される。またそれがアウティングにつながってしまっている。

 

「スポーツ」というと主語がでかい。

現実の困難をどうなくすかではなく、排除することばかりが主張される状況。排除されるということは、「選択肢を奪われる」ということ。

 

(金さん)今は当事者がネットで差別に触れてしまう状況がある。

「世界は私を歓迎していない」と思わせる状況がある。

 

(仲岡さん)特権がないのにあるように言われる。「在日特権」と同じ。

 

(西田さん)差別する側が根拠にしている『トランスジェンダリズム宣言』という本があるが、これには、トランス女性が女性とバッティングする部分ー例えばトイレでは、女性に譲ろうということが書いてある。

 

▼天満付近に行くならと、梅田から炎天下を歩き、大好きなwanna manna

 

▼他のもおいしいけど、最高においしすぎてこればかり注文してしまう。「焼餅(シャオピン)」

 

▼wanna manna付近をふらついていて見つけた、かっこいいライブハウス(?)

 

▼もしかして近いのではと思ったら、やっぱり近くにあった(思った以上に近かった)長谷川義史さんのギャラリー。

残念ながら閉まっていた。こじんまりとしていて、中に大きな机があって、川が見える絶好のロケーション。

 

大阪弁護士会館は写真で見た以上にいかつく立派な建物だった。内観が素敵だった。