ナーサ・ニ・キアナン『ぼくたちの哲学教室』(2023.7.16@元町映画館)

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ケネス・ブラナーの自伝的映画『ベルファスト』も記憶に新しいが、こちらは北アイルランド紛争真っ只中の1969年を舞台にしており、ベルファストが今どういう状況に置かれているかはほとんど知らなかった。

 

『ぼくたちの哲学教室』で映されるベルファストの街は、昔ほどの暴動はないにしても、校門前に爆弾が置かれ児童が避難する様子や、そこかしこの壁に描かれる政治的・宗教的なメッセージの込められた壁画、ゴミが散乱し、殺伐とした雰囲気を感じる街の風景。

何より、壁(「平和の壁」と言って、ユニオニストナショナリストの居住地を分断する壁らしい。映画を鑑賞後、検索していて知った)が、重苦しい気持ちにさせる。

【ベルファスト】21世紀に残る対立の痕跡「平和の壁」が分断するもの

 

集合住宅が並ぶ画一的な街は、私の故郷であり、今も住む日本の団地にも似た印象を抱かせ、貧しさを感じざるを得ない。

 

『ぼくたちの哲学教室』は、北アイルランド紛争が今も暗い影を落とすイギリス・北アイルランドベルファストホーリー・クロス男子校(小学校)で行われている哲学の授業を題材にしたドキュメンタリー。

哲学の授業は、ケヴィン校長が受け持っている。ケヴィン校長が大のエルヴィス好きであることは子どもたちや同僚の先生にも知られていて、要所要所で笑いを誘うエッセンスになっている。

 

暴力が暴力をよび、命の危険に晒されてきたベルファスト

暴力の連鎖を止めるための教育、「哲学教室」なのだ。

 

哲学の授業を受けているとはいえ、男の子ばかりが集まる学校で、日々、問題は起こる。

そのたびにケヴィン校長は、当事者の児童を「思索の壁」に誘い、哲学的な問いによって自らの行動を振り返らせ、次に何をすべきか自らの力で引き出していく。

 

困難な状況に遭ったとき、怒りから突発的に行動してしまうことについて、「状況や自分の感情と距離を置く」ことをケヴィン校長は繰り返し伝える。

そのためのそれぞれに合った方法を、子どもたちは自ら考えて生み出していく。

 

親子関係がうまくいっていない家庭に出向き、「タイムトラベルは可能か」という問いを立てたシーンは逸脱だと思った。

子は可能、親は不可能の立場で、なぜそう思うのか相手に伝えるために議論が白熱していた。

別のシーンで、学校に集まった保護者を前に、ケヴィン校長は、自分がわからないことは素直にわからないと子どもたちに言いましょうとも言う。

 

映画は編集されているので、実際の子どもたちがどんなテンポで哲学的な問いに答えているのかはわからないが、臆せず、思ったことを言う。

ある意見に対し、自分は反対のことを思ったということも、堂々と発言する。

バカにしたような笑いが起こった際には、その都度ケヴィン校長が、どんな意見にも価値があることを繰り返し伝えていく。

学校から一歩外に出れば今も厳しい環境にあるベルファストという街の中で、いかに学校を安心できる場にしていくか、ケヴィン校長をはじめとした大人たちが苦心する様子が切に迫ってくる。

先生たちは子どもたちに、みんな特別で大切な存在であることを何度も何度も言葉にする。

 

問題行動を起こしたある男の子は、どうしてそうしてしまったのかを問われ、糖尿病だと診断された不安、お父さんと会う時間が少ないことを素直に打ち明ける。

食事制限をしなければならないと言われたがしたくないと言い、好きな食べ物の話になると途端に饒舌になる。妹の話に及ぶと、いきいきした顔になる。

生きる力や、辛いことを乗り越える力がわいてくる。何度折れたとしても、正しい導きで変わることができる。

 

資本主義社会にある以上、資本主義社会で勝ち残っていくための競争の原理が学校に持ち込まれているのは、日本だけではないだろう。

学校教育も全て人間が行うものである以上、その呪縛から逃れることはできない。

以前、井谷聡子さんの講義で聞いた「Sex is Gender」というジュディス・バトラーの言葉を思い出していた。

科学や医療でさえ、それが人によるものである以上、本当に公平で公正なものであるかということはわからない。

 

しかし最低限、学校をはじめとした公教育の場や、公立の文化施設や公的サービスだけでも、資本主義の枠組みから人々を解放し、本当に安心していられる場をつくる必要があると思う。

(元町映画館をはじめ、民間の映画館や劇場がそのような信念や理念を持つ人々に支えられていることに胸が熱くなる)

 

映画上映後の哲学ワークショップに参加するつもりで、上映時間の30分前に映画館に着いたのだけど、15名の枠はすでにいっぱいだった。

また映画自体、補助席が出るほどの盛況ぶりだった。

ベルファストに住む子どもたちの保護者(大人)と同様、私たち日本の大人も、子どもの頃にこのような導きがあればと願った人は少なくないだろう。

もう子ども時代には戻れない。戻ったとしても、そのような導きに出会えるとはかぎらない。

経験していないことを実行することはむずかしいが、気づいた人から実践していくことで、世界はこれまでに少しずつ変わってきた。

 

社会、自分が所属するコミュニティで、自分は大切にされてきたという思いが帰属意識を生む。法律やルールではなく、信頼関係によって人は結ばれている。

 

心があたたかくなるとともに、大人として、社会の一員としてどう振る舞うべきか(たとえそれが常に実行できなかったとしても)、考えさせられた。

 

(男の子たちが哲学的な問いによって変化していく様は、『ウーマン・トーキング』で村を去る女性たちがオーガストに託した「男の子たちを教育して」という願いへのある一つの答えのような気がした)

 

ケヴィン校長がジムで同僚の女性の体型を揶揄したのを残念に思ったのと、最後に完成する壁画がオールメン(そもそも古代哲学者は全員男性)であること、舞台がカトリックの男子校であることは留保する必要があるかなとは思いました。

 

哲学WS、参加したかったなー!

帰りは時間ができたので、横尾忠則現代美術館『原郷の森』を予定よりゆっくりとみてまわった。

ポリタスTV平野啓一郎さんが、三島由紀夫仮面の告白』を読み返したって話をしていて読みたくなりちょうど持ち歩いて読んでいたので、ここでも三島由紀夫!と、妙な縁を感じた。